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最高裁判所第二小法廷 昭和52年(オ)1126号 判決

上告人

乙野丙治

〈仮名〉

右訴訟代理人

丹沢三郎

被上告人

甲野花子

右訴訟代理人

我妻源二郎

正田昌孝

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人丹沢三郎の上告理由第二点五について

被上告人が亡乙野やよいの包括受遺者であることは、原審において当事者間に争いのない事実であるから、所論は原判決に対する上告理由とはならない。論旨は、採用することができない。

その余の上告理由について

所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、ひつきよう、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するものにすぎず、採用することができない。

よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(栗本一夫 大塚喜一郎 吉田豊 本林譲)

上告代理人丹沢三郎の上告理由〈省略〉

〈参考・原判決理由抄〉

(東京高裁昭和五一年(ネ)第一〇号、土地所有権持分移転登記等請求控訴事件、同五二年七月一三日第一七民事部判決・棄却、原審東京地裁(昭和四八年(ワ)第一〇二四九号)

【理由】 〈証拠〉によれば、次の事実が認められる。

1 やよいは、大正八年一郎の許に嫁して以来、乙野家の長男の嫁として、病弱で目の不自由な姑春子に代わつて、同家の家事及び控訴人を含む一郎の弟妹の養育等に尽し、控訴人ら兄弟及び近隣の人々に敬愛されていたところ、夫一郎との間に子が生れなかつたことから、性格が素直で優しく思われた控訴人を慈しみ、ゆくゆくは養子として乙野家の跡を継がせようと考えていた。

そのため、一郎とやよいは、控訴人を跡継ぎに相応するように教育すべく、家業に精励し、他の弟妹には小学校教育しか受けさせなかつたのに独り控訴人のみを大学に進学させ、医師として生業できるに至るまで教育し、その間実親にも優る世話をし、控訴人が昭和一二年に夏子と結婚し、戦時中東京都品川区○○に医院を開業するまで控訴人夫婦に月額二〇円程度の援助を続け、その後も食糧等の援助を続けた。

2 当時控訴人夫婦においてもやよいに対する感謝の念を忘れず、一郎死亡(昭和二四年)後は同人に対し生活費の一助として月に二、〇〇〇円ないし三、〇〇〇円を仕送りするなどしてその世話をしていた。そして、控訴人は、昭和三九年にはやよいに相談することなく、東京都練馬区役所へ控訴人夫婦がやよいの養子となる縁組届をした(養子縁組の事実については当事者間に争いがない。)。やよいは、控訴人を一〇才の時から前記のように養育し、医師となつた同人を誇りとし、その人格に全幅の信頼を寄せ、同人夫婦からも親愛の情を示されていたので、右養子縁組にもとより異存はなかつた。

3 そして、やよいは、昭和四二年頃、控訴人との関係が右のように円満であり控訴人より生活費として一万七、〇〇〇円位の仕送りを続けてもらつていること、控訴人が正式に養子となつて乙野家の跡継ぎになつていたことから、自分の老後を控訴人に託し、その家族の一員として控訴人夫婦や孫に囲まれて安らかに暮すことを予定して、乙野家の家産、先祖の祭祀等を引き継がせるために、本件土地を主体とする亡夫一郎の遺産を控訴人に取得させたいと考えるようになり、控訴人らにその意とするところを語つていた。

4 昭和四三年頃やよいは控訴人以外の者で一郎の父太郎(一郎の死後昭和二五年に死亡)及び同母春子(昭和三一年死亡)の相続人である控訴人の兄弟及びその代襲相続人らにその心情を訴えて説明したところ、これらの者はやよいの考えに同調し、各人の相続分につきやよいの要望するところに従い控訴人に贈与することに同意した。

5 そこで、当時いまだ一郎の遺産につき分割の手続が未了であつたところから、やよいは、控訴人以外の太郎及び春子の全相続人(太郎に関しては、昭和二六年に相続放棄をしなかつた者)から「被相続人からすでに相当の財産の贈与を受けており被相続人の死亡による相続分については相続する相続分の存しないことを証明します」との文言を記載した証明書をとりまとめ、亡夫一郎の遺産につき自分名義の同旨証明書を添えて控訴人に交付した。これによつて控訴人が冒頭掲記の各所有権移転登記手続を了した。

〈中略〉

以上認定の事実によれば、本件土地については、控訴人固有の相続分以外の所有持分権の控訴人に対する移転(そのうちやよいからの分は、原判決別紙物件目録(一)の土地については持分四分の一、同(二)ないし(一〇)の土地については持分二分の一)は、一郎の遺産の分割に当り、控訴人以外の相続分を有する者から控訴人に対し、右各相続分を贈与することによつてなされたものというべきである。就中やよいからの贈与分は、やよいの財産のほとんど全部を占めるもので、やよいの生活の場所及び経済的基盤を成すものであつたから、その贈与は、やよいと控訴人との特別の情宜関係及び養親子の身分関係に基き、やよいの爾後の生活に困難を生ぜしめないことを条件とするものであつて、控訴人も右の趣旨は十分承知していたところであり、控訴人において老令に達したやよいを扶養し、円満な養親子関係を維持し、同人から受けた恩愛に背かないことを右贈与に伴う控訴人の義務とする、いわゆる負担付贈与契約であると認めるのが相当である。

控訴人は、本件土地はやよいらの相続放棄により単独相続したものであつて贈与によつて取得したものでないと主張するが、少くともやよいの相続分に相応する持分については、前記認定のとおり登記手続の便宜上やよいにおいて具体的相続分の存在しないことを承認する形式がとられたにすぎないものと認められるから、右主張並びにそれらを前提とする禁反言の主張は容認することができない。

三 ところで、負担付贈与において、受贈者が、その負担である義務の履行を怠るときは、民法五四一条、五四二条の規定を準用し、贈与者は贈与契約の解除をなしうるものと解すべきである。そして贈与者が受贈者に対し負担の履行を催告したとしても、受贈者がこれに応じないことが明らかな事情がある場合には、贈与者は、事前の催告をすることなく、直ちに贈与契約を解除することができるものと解すべきである。

本件において、やよいが、本件負担付贈与契約上の扶養義務及び孝養を尽す義務の負担不履行を理由に、控訴人に対し、昭和四八年一二月二八日送達された本件訴状によつて、右贈与契約を解除する旨の意思表示をしたことは、記録上明らかである。

そこで、右負担付贈与契約の解除の適否について判断する。

〈証拠〉を総合すると、やよいと控訴人とは昭和四二、三年頃までは養親子として通常の関係にあつたが、昭和四三年一〇月一五日に本件土地について前記のとおり控訴人の単独相続による所有権移転登記手続が経由されて以後、次のような経緯で、控訴人はやよいに対し親愛の情を欠くようになり、その態度、行動は苛酷なものとなり、両者の養親子としての関係を破綻させるに至つたことが認められる。

1 控訴人は、やよいから同人の一郎の遺産に対する相続分を前記のように贈与を受けるに先だち、昭和四三年九月一六日やよいの頼みで被控訴人に対し右遺産中の原野四畝二五歩、山林四畝二三歩を贈与することにしたが、内心右贈与を快く思つていなかつたこともあつてその履行を直ちにしなかつたところ、やよいから被控訴人への所有権移転登記手続を早くするよう度々催促されるので、やよいを疎ましく思うようになつた。

2 一郎は昭和二二年頃乙野家の手伝いとして長年尽した訴外丁野秋子に年季奉公の謝礼として農地を贈与したことがあつたところ、丁野から右土地を買受けていた訴外山田次郎が、昭和四五年頃になつて同土地の所有名義人となつた控訴人に対し所有権移転登記手続を請求したのに対し、控訴人が右贈与を否定して紛争になつたが、やよいが、農地委員会から事情聴取された際、丁野への贈与があつたことをありのままに認める陳述をした。そのため、控訴人は自己に不利な供述をされたことを根に持ち、やよいに対しさらに不快な感情を抱くに至つた。

3 やよいは、昭和四五年頃、太郎の代から乙野家に仕えていた訴外乙野司郎が貧しく、住家の屋根の修繕材料に窮していることを聞いて不憫となり、控訴人においても当然異存はないものと考えて控訴人所有の山林の立木四本ばかりの伐採を許したところ、控訴人から苦情を呈されて謝つたことがあつた。やよいは、右事件について右の謝罪により落着したものと思つていたところ、その後約一年位過ぎて、控訴人からやよいと司郎が共謀のうえ控訴人所有の立木を窃取したとして、富士吉田警察署に告訴され、同警察及び検察庁から呼び出され取調べを受けるに至つた。

4 控訴人は前記1のように被控訴人に贈与した土地について、昭和四六年一一月一日被控訴人から所有権移転登記等を請求する訴訟(後に右土地を控訴人が第三者に売却したため損害賠償請求に変更された。)を提起されたところ、右訴訟において、控訴人は、被控訴人に右土地を贈与するに至つたことに関して、やよいが「同意しなければ控訴人の経営する医院や田舎の家に放火して、首つり自殺をしてやる」などと申し向けて控訴人を脅迫したとか、やよいが、異常性格であるとか、控訴人の立木を勝手に売却したり、控訴人の土地を担保に供すると称して多額な借金をなし浪費生活を続けているとか、虚偽の事実を法廷で供述し、やよいの名誉を著しく傷つけた。

5 控訴人夫婦は、昭和四七年一二月一一日甲府家庭裁判所都留支部に、やよいについて右4の虚偽の供述と同旨の事由があるとして、離縁及びやよいの居宅(同人が嫁に来て以来住んでいる乙野家の家屋)等の明渡を求める調停の申立をするに至つたが、右調停は、昭和四八年七月一〇日不調に終つた。

6 控訴人は、やよいが前記贈与によつて身の廻り品や、前記の僅かばかりの株券のほかほとんど無一物となり、一郎の恩給(月額九、〇〇〇円)と控訴人からの仕送り(当時は月額一万七、〇〇〇円位)で生活していることを了知しておりながら、昭和四七年末頃から右仕送りを中止し、やよいをして困窮の身に陥れ、同人を昭和四八年二月八日以降月額一万円にも満たない生活保護と隣人の同情に老の身を託さざるを得なくし、さらには、隣人に対し手紙でやよいに金員を貸与しないよう申し入れた。同地方の有数の資産家の未亡人で、近隣から敬愛されていたやよいのこの窮状は、周囲の人々の同情と控訴人に対する非難を呼ぶことになつた。

7 控訴人は、昭和四七年一二月頃、やよいの居住する家屋に昔から付設されていた電話を、使用者であるやよいが留守中に無断で取り外してしまつた。

8 なお、控訴人は、昭和五〇年二月頃、やよいが病気で入院している間にやよいの右居宅に侵入し、以後のやよいの出入りを断つべく、道路と家との間に有刺鉄線を張りめぐらし、更に出入口の鍵まで付け替えてしまつた。

9 やよいは、控訴人の仕打ちが昂ずるに及んで遂に昭和四八年一〇月一九日甲府地方裁判所に控訴人夫婦を相手とし離縁の訴を提起し、昭和五〇年一月二二日協議離縁することで和諧するに至り、同年三月一七日離縁の届出をして、控訴人夫婦との養親子関係を解消した。

〈中略〉

以上認定事実によれば、控訴人は、やよい側に格別の責もないのに、本訴が提起された当時において、養子として養親に対しなすべき最低限のやよいの扶養を放擲し、また子供の時より恩顧を受けたやよいに対し、情宜を尽すどころか、これを敵対視し、困窮に陥れるに至つたものであり、従つて、やよいの控訴人に対する前記贈与に付されていた負担すなわちやよいを扶養して、平穏な老後を保障し、円満な養親子関係を維持して、同人から受けた恩愛に背かない義務の履行を怠つている状態にあり、その原因が控訴人の側の責に帰すべきものであることが認められ、控訴人とやよいとの間の養親子としての関係も本訴提起当時回復できないほど破綻し、その後の経過からみても、やよいが控訴人に対し右義務の履行を催告したとしても、控訴人においてこれを履行する意思のないことは容易に推認される。結局、本件負担付贈与は、控訴人の責に帰すべき義務不履行のため、やよいの本件訴状をもつてなした解除の意思表示により、失効したものといわなければならない。〈後略〉

(外山四郎 海老塚和衛 鬼頭季郎)

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